2016年5月11日

日常に沁みて






 感動などでは決してない。共感するにはレベルが高すぎる。なのに体内にまで深く沁み入るように、忘れられない一冊になりそうだ。鬼海弘雄写真集『TOKYO VIEW』、『東京模様』とも名付けられている。写真家と発行者が何度も交渉を重ね高精細印刷技術を駆使したという価値ある仕上がり。それが一枚一枚の写真の力をさらに引き出しているのはまちがいないけれど、写真集の中に、まるでその風景が実在しているかのような錯覚が生まれ、見ている者自身も町をふらふらと彷徨い歩いている印象へとつながる、まことに不思議な一冊だ。

 写真家を目指しながら所蔵している写真集は数えるほどしかない。しかもそうそう何度も開かないときている。ひっくり返るような衝撃を受けた『GENESIS』でさえ同じ扱いだ。『TOKYO VIEW』はなぜ何度も見たくなるんだろう。窓際で見ているときだった。差し込んできたカーテン越しの陽光で写真の陰影が変わった。さらに深みが増したと言っていいかもしれない。それは、歩き続け何十年と撮り続けた写真家の居た時空間に、いまここにあるちっぽけな日常が重なった瞬間でもあった。理由がわかった。慈しむべき日常がここにもあることを、写真集が教えていた。きっと明日もまた開くにちがいない。感動でも共感でもなく、愛おしい日常のために。

 『TOKYO VIEW』には人が登場しない。気配があるだけだ。誰もが撮るかもしれない布団や洗濯物がしばしば捉えられているけれど、多くはこの凡夫なら見過ごしてしまうほどの町の片隅を切り取っている。その中でひときわ印象に残ったものがある。キャプションには「投げられたボール 1975」。階段のある路地に惹かれた写真家がハッセルを構え覗き込むやボールが画面に飛び込んできたんだろうか、傾いた画面がさらに動きを増幅している。

 撮っていると、こういう瞬間との出会いがよくある。鳥や風などがいい具合に画面を構成するように飛び込んでくる。けれど、それを捉えたと感じた経験などほとんどない。ボールの写真はだからすごいと言いたいのではなく、風景を求めて彷徨う写真家を、もしかすると風景のほうで待っていたのではないか、という印象がこの『TOKYO VIEW』にはあると感じるからだ。





 写真の世界の深さに戸惑うばかりの日々が続いている。偉大な方々の作品にふれる度、その度合いが増して行く。もう撮れないかもしれないと、すでに覚悟まで用意した。ここでも救いは発行者の佐伯剛さんの言葉だった。

 「一般的には、シャッターチャンスを逃さないために常にカメラを持ち歩いているのがいい写真家だと思われているが、鬼海さんは、カメラを持ち歩かない写真家だ。鬼海さんは、写真を撮る時間よりも、物事を見つめている時間と、考えている時間の方が、圧倒的に長い。
 自分の中にないものは撮れない。だから、いい写真を撮ろうと思えば、自分を豊かにする努力以外の近道はない。はやりのワークショップや、メーカー主宰の写真教室では、そういう大事なことを教えてくれない。その真理は、写真にかぎらず、どんな物作りにおいても古今東西同じだと思う」。

 鬼海さんと同様に考えることなどできるはずもないけれど、撮れないでいる今、撮らない代わりに、撮るための経験を重ねているんだと自分では感じている。福島の子供たちと過ごす保養キャンプも、能登の家じんのびーとで作り出している田舎暮らしも、そしてこのなんということもない日常も。

 窓際で『TOKYO VIEW』を見ていた翌日は、老いぼれて行くばかりの両親の結婚記念日だった。結婚した翌年にこの息子が生まれたから、63周年になる。今ではすっかり愛機になったローライで記念の一枚を撮った。撮ることで、感謝の気持ちに代えたいと思った。自分勝手と感じるおふくろが実はあまり好きじゃない。おやじも毎日テレビの前に座っているだけ、毎度毎度の病院通いに同伴するのが鬱陶しくなることもある。

 日常を慈しむとはどういうことだろうか。この両親が出会い結婚しなければ、もちろんこの愚息もここに存在せず、こんな駄文を書いていることもない。慈しむべきものは、見えない糸のようなものかもしれないと、ふと思う。

 短いのが気に入って毎日のように読んでいる鷲田清一氏の「折々のことば」の今日はなんとも奇遇だ。

 「家屋はたしかに安全性を保障するもの、嬉(うれ)しいにつけ、悲しいにつけ、いつもかくれ場所(ヨハン・フィッシュアルト)

 家は、人がおびえることなく身をほどき、くつろげる場所。強い信頼で結ばれ、『われわれ』という親密な関係の中に浸れる場所だ。けれども『兄弟は他人のはじまり』と言われるように、それは、深刻な葛藤が生まれ、たがいに他者であるということが至近距離で思い知らされる場所でもある。O・F・ボルノウが『人間と空間』で引いている16世紀ドイツの詩人のことば」。

 慈しむとは、たぶんお気に入りの対象を愛でることを越えている。自分自身を含めたあらゆる存在に向けて、むしろ好ましいと感じられない対象をこそ、己の全体で包み込むような感覚なんだろうか。ほとんど好き嫌いで生きてきたここまでの長い日々を思うと、今撮れなくなっている状況がさもありなんと頷ける。

 写真は見える対象を撮ることしかできないけれど、撮ろうとしているもの、少なくとも感じているものは、たぶん見えないんだろうと薄々感じてきた。『TOKYO VIEW』に出会いわずかこの数日の間に、静かに内で変わりはじめているものが確かにある。どこにでもある日常がここにも当然あり、どこの家族にもありそうな諸々でごったがえし、日々それらに翻弄されている。ただこれからはすこし違う見方、感じ方、考え方ができるかもしれない。雑多な暮らしの表層に惑わされ、このまま死んで行くのではあまりに情けなくないか。写真家を目指す前に、まずは人であれ。それも見えないものを見つめる人であれ。『TOKYO VIEW』がそう囁いている。

 衝撃的な出会いは熱が冷めればすぐにでも忘れ去るけれど、じわじわと日常に影響し続ける静かで沁み入る出会いは生きる力にもなる。そんな出会いが写真にもあるのだと、はじめて知った。










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