2013年10月20日

疑わしきは被告人の利益に

 
 「疑わしきは被告人の利益に」。裁くのが人間である以上あやまりがあるかも知れない。ひとつのえん罪もあってはならないとする司法のこの大前提がないがしろにされている。再審を認めなかった櫻井龍子裁判長は、その心構えとして「裁判に携わるのは初めてですので,人を裁くことの重さを噛みしめ,自己研鑽に努め,公平で,公正な判断ができるよう心して参りたいと思います。特に社会が大きく変化し,国民の意識も多様化してきていますので,多くの方々の声に耳を傾けながら,ひとつひとつの事件に丁寧に対応し,バランスのとれた判断を積み重ねていくことが大事だと思っています」と就任時に記している。司法の仕組みにある数々の問題を言う前に、裁きの重みを知るはずの裁判官がその自覚をどれほど持っているのだろうかと問いたくなる。

 この事件のその後の経緯を扱った映画『約束』を観て以来、死刑囚となった奥西勝さんの心情に度々思いをめぐらすようになった。そのどれほども感じることは叶わないけれど、えん罪に陥れられることはだれにもあることだと確かに感じている。検察官は無罪につながるような不利な証拠は伏せ、有罪を立証するものだけを提出する。裁判官はその証拠を元に判決を下す。これでは真相ではなく罪人を確定することが大事であるかのようだ。司法とは、それに携わる人々は、いったい何を望んでいるのか。

 奥西さんの人生を、あるいはえん罪を押し付けられた人生を、もしも自分のものとして経験しなければならなかったら、どんな思いでその日々を生きるだろうか。やり切れない哀しみ、苦しみ……、どんな言葉でも足りない感情があるにちがいない。「疑わしきは被告人の利益に」という絶対のルールさえ守られない世の中にだれもが生きている…

 日常の中でも、人が人を疑い、裁くことが当たり前になっている、己を含めて。他を思い遣ることは並大抵のことではない。大方、簡単にそうできる状況で思い遣っているに過ぎないのだろう。えん罪を晴らそうと立ち上がった人たちの尊い意志と人生をも思う。


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